LGBT差別のトラブルでゼミをやめた話

タイトルをみて開いてくださった方へ、この話はよくあるLGBTへの差別が原因でゼミをやめた訳ではないのでそれを踏まえた上で読んでほしい。

大学のゼミを辞めることにした。
ジェンダー系のゼミであった。
必履修ではないので特に卒業には困らない。それも後を押した一因である。
私は所謂バイでオタクである、そのために両方を学術的に見ることができるのではないかと大学に入る前からゼミをここと決めていた。
実際に入った後は楽しめた、参考図書を元にディスカッションのテーマを決めて議論をしていくというのはなかなかに面白いものだった。
しかし、どこかで謎のストレスを感じていたのも事実である。
何が嫌なのかも分からないまま、無事に半期を終え、後期を迎えた時にその理由がはっきりしたのだ。

それは、ある一人の生徒の発表の時であった。その生徒は、BLのストーリーとセクシャルマイノリティの変遷について調べたものであった。何でも、昨今のBLは一昔前に比べて実際の同性愛者の恋愛に近い描写があるものが出現してきているらしい。
そこでゼミ一同で話された内容がどうにもひっかかった。
「昔と違って、今は受け入れられることもある」
「理解者が増えた、認知度が増えた」
「今の物の方が昔より実際にありそうでないストーリーだ」
なるほど、どれも事実だと私も思う。
では何がひっかかったのか、議論の内容では無くその話す時の考え方のベースだったのだろう。
私の教授は「ホモ」という表現に対して嫌悪的である。確かに一般的には差別用語であるために多用するのはいささか問題である。そのために「ゲイの方」「レズビアンの方」などと言った表現をする事が多い。生徒もそれに倣って同じような表現をするようになる。無論、私も同じように言っていた。
後から考えると、これが私にとってのストレス要因であったのだろう。

少し話がそれて、日常生活の話になる。

私は、日頃からあまりバイであることを隠さない。男子と一緒に好みの女の子の話をし、女子とあの男性がかっこいいだのなんだのといった話を普通にする。恋愛の話ではまず最初に「バイなんだけど」と前置きを置くこともある。
もちろん、これが受け入れられている状況というのは世間からすると少し珍しい部類なのだろう。しかし、私の周りの友人や知り合いはあまりバイであることを気にしない。(私のいわゆる好きなタイプが少し特殊で、あまり当てはまる人が周囲にいないのも理由となっているのかもしれないが)
この、周りが当たり前の様に自分がバイセクシャルであることを受け入れるという状況は、自分が自覚し始めた高校の頃からずっと変わらなかった。
この、「当たり前に受け入れる」というのは、なかなかに難しい。
例えば、異性愛者同士では、割と恋愛の話で盛り上がったり、からかったりする事があるだろう。「お前、○○ちゃんの水着見すぎじゃね??変態だ~」だの「やっぱ二次元なら男子は○○がいいよね~」みたいな事はよくあるのではないか。
同性愛者がこの輪に入ることは難しいのかもしれない。しかし幸いにも私はこういう会話によく参加する。それは、向こうもオタクであり「耐性」があるのも理由かもしれない。
ある日、同じような下世話な話を男子としていた時に「この両刀使いがよ~w」とからかわれたことがある。だが、全く気にならなかった。それは、向こうに悪意が全く無かったからというのもあるし、何より、ノリが普段と全く変わらなかったからだ。
向こうは、「この尻フェチ野郎」とか、「おっぱい大魔人」とか、その程度のノリで「バイ」であることを話してくるのだ。
私はこの関係をとても気に入っている。正直、自分の中で最高の状態ではないかと思っている。

話をゼミに戻そう。

ゼミでは私はまだバイであると言う話をしていない。あまり授業以外で話すことも無く、女性(分野は違うが全員オタク)しかいないゼミ故に恋愛について話す事は無い。単純にCOする機会が無かったのである。
前述した通り、サークルではジェンダーについて取り扱うことが多い。その為にLGBTについて議論する事も勿論ある。その時に、皆して「ゲイの方」「バイの方」「レズビアンの方」という風に呼んでいく。
それが耐えられなかった。
私は今まで自分がバイであることで差別されたことも嘲笑われたことも無かった。ただ、ただ受け入れられ、他の人とも変わらず、苦しむことも無く生きてきた。私にとってバイであるという事は、私がオタクであること、数学や理科より文系科目が得意なことといった個性となんら変わらない。隠すつもりもなく、むしろバイであることよりも平均身長であると言っているが実は1cm足りない事のほうが隠したい事実だ。
もちろん、これはLGBT当事者の中ではかなり特殊なケースなのだろう。実際に、悩んで、差別されて、苦しんでいる人もたくさんいる。
しかし、類は友を呼ぶのか、私の周りのLGBT当事者は私と同じように何故か周りに当たり前に受け入れられ、特に悩むこと無く生活している方が多かった。

とにかくだ。
そんな環境で過ごして来た私にとって、教授や他のゼミ生の「LGBT差別をしない」というスタンスはむしろ苦痛であったのだ。
それはもちろん向こうの当事者へよ気遣いであり、何ら問題がある行為ではない。むしろ好まれる物だろう。しかし、LGBT当事者であることに何ら問題も苦痛も疑問も抱いていない私にとってその「差別をしない」という行動や態度は、反って逆差別的というか、腫れ物を触るように扱われていると感じてしまうというか、その「特別扱い」が苦痛だったのだ。
今まで、何も苦痛を味わっていないのに、いたわられる状況は、まるで「差別されている・悩んでいる・苦しんでいるLGBT当事者」を押し付けられているように思えてしまった。

最初にバイだと言って、いつもの様に生活していれば、向こうもそれに気づいて当たり前であるととってもらえたのだろうか。しかし、言っていないからこそ、心の奥底にあるベースの考えが見れたのかもしれない。

他のゼミ生にこの話をするつもりは毛頭無い。やっていることは間違っていないし、何より今さら話してもだからなんだという事になる。ただただ私と、その周りがレアなケースだっただけだろう。もしかしたら私の周りに見当たらないだけで、広い現代社会、意外と多いのかもしれない。

これを書いている時点ではまだゼミをやめるとは言っていない。こうして書き終えてみて、改めて何が辛かったのかを自覚できた。なんとなくモヤモヤした気持ちが晴れて、ようやく自信を持って(?)やめることができそうだ。

普段物も書かず、割と直感で生きているため、ここまでの長さの文章を書いたのは久しぶりだ。推敲もしていないため、誤字や脱字、読みにくい箇所があっても見逃してほしい。

もしここまで読んでくださった方がいたら、こんなパターンもあるんだよと、心に留めておいていただければ幸いである。